誓願寺
玉川石材では東京都府中市にある
誓願寺の寺墓地もご案内できます。
誓願寺
- 住所
- 東京都府中市紅葉丘1-14-4
- 宗派
- 浄土宗系単立
田島山誓願寺由緒沿革
浄土宗系単立寺院の誓願寺は天正18年に小田原に建立された。
当時小田原にいた徳川家康が江戸開城にするにあたり、その招きで文禄元年(1592年)神田白銀町に移り、また神田須田町へ移転した。当時あたりは広い田畑で、その中に末院六ヶ寺を有する広大な寺院であったので、あるとき寺に詣でた家康は遠くからその景色を見て「田の中の島のようじゃ」と云われ、そのため田島山誓願寺と号するようになった。
徳川家康、家忠の崇敬を受けた他、綱吉、桂昌院の帰依を受け、寺領400石の御朱印を拝領、十一の末院を擁していた。
その後、浅草田島町(誓願寺の山号にちなんでつけられた) に移転し、関東大震災で被災の後、末院はそれぞれ別寺になり本寺は現在の地に移転した。
現在住職 四十四世 荻原義隆
民話 蕎麦喰地蔵
誓願寺がまだ江戸浅草田島町にあったころ、浅草広小路に尾張屋という蕎麦屋があった。
そこへ毎晩遅く蕎麦を食べにくる一人の僧がいた。蕎麦屋の主人は来る度に快く蕎麦を供養していたが一ヶ月も続くと店の者たちは不審がって狐か狸ではないかと云い出した。ある夜、主人が後をつけてみた。すると僧は誓願寺の山門をくぐり、境内の中にある末院の一つ西慶院の地蔵堂の前に立ったかと思うと、扉も開けずにそのまま中へ消えてしまった。主人は驚き一散に家へ駆け戻った。その夜、主人の夢のなかに僧が現れて、日頃の供養の礼を伝い、蕎麦屋一家
の諸難、悪疫を除いて進ぜようと云って姿を消した。あるとき江戸に悪病が流行し、多くの人がばたばたと倒れたが、この一家だけは皆無事であった。
この話を伝え聞いた人々はこの地蔵様に蕎麦を供えて祈願するようになったという。
※その後、西慶院は九品院に合併され、その九品院は練馬に移転して、
地蔵堂もここに安置されている。現在九品院は誓願寺の末院ではない。